もっと力を抜いて
生きられればいいのに、と自分に対しても人に対しても思う。
私にとっては、楽するわけでもなく、頑張りすぎるわけでもない、このバランスをとることがとても難しい。大概は頑張りすぎてしまう。
そしてその難しさがピークだったのが育児。
それまではかなりの仕事人間で、夜中まで仕事して、全神経を仕事に注いでいた時期があった。
あの時の私は髭が生えてたんじゃないかと思うくらい男性的な生活をしてたと思う。
20代なのにお洒落なカフェに行くでもなく、おじさま達と仕事に疲れて夜中に居酒屋やお寿司屋さんに行く日々。
それでも、やりがいがあって楽しかったし、適切に仕事をすれば評価も得て、お給料も上がる。良い循環があったから苦痛ではなかった。
でも子供との生活は違う。
Aをやっている間にBとCのプランを考えてDの準備をしておく。
なんて効率とは無縁の世界。
効率はむしろ邪魔になるだけの、回り道だらけの毎日。
脳みそが論理的思考と明確なビジョンに侵されていた私にはこれが辛かった。
素直すぎる感情表現に、通じない理屈、それに一人で向き合ってる孤独と不安、そして誰にも評価されず、育児のためにおろそかになった部分に着目される日々。
育児に向き合ってるパートナーに対して、
そんな神経質にならなくても。
もっと気楽に。
それより掃除は?
まともなご飯は?
もっとちゃんとできてる人もいるよ。
って少なからず感じるのは、やはりそれが対岸の火事だからなんだと思う。
自分の足元に火がついてるのに、冷静でいられる人はいない。
距離をとって見ることで真実がわかることはもちろんある。
でも、日々の自分の子供との関わり合いって、もっと自分の心と近い位置で行われてる。
自分の生い立ちや生き様や怒りのコントロール、ありとあらゆる剥き出しの事実に、子供という鏡を通して向き合ってしまうものだと思うのです。
それは答えのあるものではなく、とても苦しい。
子供のまっさらな肌や、優しい匂い、どこまでも純真に親を求めてくる愛おしさ。その奇跡に目を向けてさえいれば大丈夫、と気付いてからは共に生きることの素晴らしさに集中できるようになった。
3人育てて落ち着いてきた今思うのは、
3人が私をお母さんにしてくれたということ。
本当に無償の愛をくれたこと。
それが全て。
今苦しんでるお母さんやお父さんがいたら
声を大にしていいたい。
色々気にしなくても大丈夫。
育児書は真面目なお母さんは読まない方がいい。
「こうしたらいい子に育つ」
を
「こうしていない私は悪い母親」
に読み替えてしまうから。
子供はどんなお母さんでも無条件に好きでいてくれる。
そのお母さんが心身共に健やかなのが何より嬉しいことなんだと思う。
部屋が散らかる時もある。
ご飯が適当になる時も。
それでもそんなことは大したことじゃない。
私は今、子供達が愛おしくてしょうがないし、誰に何を言われようが真摯に子供に向き合ってきたから
ようやく自分をお母さんとしてよくやってきたよ、って認めてあげることができた。
そしてこれからは、適切に子離れをして、再び自分を探しに出るべきなんだと思う。
子供との関係だけではなく、
全ての人間同士の関わりにおいて
本当の優しさを持つということは容易ではない。本当に許し合うことは痛みが伴う。
それでも。
みんな辛いことがあるんだし。
みんな状況が違うんだし。
男女は究極的には分かり合えないかもしれないけど。
癒し合えることもあるし。
日本人全体がもうちょっとゆるゆるしてても。
正しい答えはいつも一つでなくても。
いいんじゃないかなって思う。