ギフトとは
奈良出身の私には
東大寺のお坊さんが奈良駅前に「托鉢」のために立っている光景はお馴染みのもの。
「托鉢」とは、僧が修行のため街に立ち、日々の暮らしに必要な最低限のお金を寄付してもらうこと。
私が小さい頃から見てきた托鉢僧は、寒い冬でも素足に草履でそこに立ち、お金を入れてもらう入れ物を持ち、ただひたすら般若心経を唱えていました。
まだ幼かった私には、お坊さんが単に可哀想な人に思えてしまい、通りがかる時には母に小銭をもらって寄付をするのが習慣でした。
この間、奈良で二人のお坊さんが立っているのを見かけました。
一方は般若心経を唱え、姿勢良くぴしっと立っている見慣れた風情のお坊さん。
もう一方は曲がった背中に無精髭、目つきの鋭いお坊さんです。お経も唱えていません。よく見ると足元にはボロボロの袋。
ホームレスの方なのかな、と。
ありのままの姿でお金を下さい、と言うのではなく、どこで手に入れたのか僧侶の格好をして、仮の姿で人の善意につけ込むなんて、と私は腹立たしく思いました。
小さかった私が裏切られたような気持ちになったのかもしれません。
どうせ真似するならお経くらい練習すればいのに、とか。本物の横でよくできるな、とか。
複雑な思いで見ていたのですが。
しばらくすると、本物らしき方が帰る様子です。
身支度を整えると、静かに偽物らしき方に近づき、自分の入れ物に入ったお金をそっと偽物さんの入れ物に入れ、帰っていかれました。
私は、それこそ頭を鈍器で殴られたような衝撃を受けて、なんだか泣きそうになりました。
自分が被害を受けたわけでもないのに、腹を立てた私の心の狭さ。
相手がどうあれ、淡々と行動したお坊さんの姿。(だって、そうされても偽物さんはお礼することもなく、ブスっとした表情で立っているだけ…)
ものすごい衝撃でした。
プレゼントや寄付って、相手が喜び感謝することを勝手に期待してやっているんだなあ、ということを改めて感じたし、
そうではない慈善を見せつけられた気がして、自分が恥ずかしくなりました。
今の時代に溢れるSNSなどへの厳しいコメントの数々…
本来なら赤の他人へ激しい怒りを感じる必要はない。
怒りを深く掘り下げると、意外と自分の中に原因があったりする。
自分が正しいと思うことを貫くことと
それをしてない人を非難することは
別のこと。
価値観は人それぞれだから。
でもやはり、他人に怒ってしまうことはある。
人間は、いつも綺麗というわけにはいかない。
それがまた、人間らしさでもあるのだろうと思うけど
出来ればあのお坊さんのように
見返りを求めない優しさを持てる人でありたい。